2013年11月11日
ランドセルに詰めるモノ
―日常の些細なことで、ふっと子供の頃が蘇ることがある。
時節柄なのか、TVでランドセルのCMをよく目にする。
昔は男の子の黒と女の子の赤が定番だった色も、数えきれない程の
カラフル色になった。カルガモと一緒に行進している”こども店長”が
背負っているランドセルは、いかにも軽くて上等そうだ。
あと何年もすれば孫にプレゼントでもしようかという年齢になって、
その思い出は遠い昔のこと、記憶中枢の端っこにひっかかるように残って
いた。
我が家は6名兄弟末っ子のボクが小学校に入学すると、長男の高校
3年を筆頭に、高1、中2(姉一人)、小6、小3、小1と、ずら~と兄弟が
学校に通うようになった。
当時はどの家でもそうだったが、洋服から靴、学用品に至るまで何でも
兄弟間のお下がりだった。子供の成長は早いし新品を買う余裕もないから、
お下がりできるものはすべてやった。頑丈な真鍮製の弁当箱でも、それこそ
ボクのところにくるまでには形がボコボコになっており、やっとフタが閉まる
状態になっていた。
当然、子供心に末っ子に生まれた運命を嘆き、今度生まれてくる時は、
贅沢をいえば一人っ子に、そうじゃなければせめて長男にと、夜空の星に
願ったものだ。
不思議な気もするが、ランドセルだけはお下がりじゃなかった。
まあ、今思い起こせば、ランドセルは洋服と違ってその気になれば小学校
の6年間は使えるし、そこまで使い古されたモノを、よもや親もお下がりに
しようなどと思わなかったのだろう。
ところでボクの小学校の入学式に両親は出席しなかった。漁師をして
いる父はもちろん母も仕事が忙しいということで、学校の近くに住んでいる
祖母に代わりを頼んだのだ。でもボクは両親の出席しないことを寂しいと
思わなければ、どっちかと云えば気にも留めなかった。
その理由はピッカピカのランドセルだった。天にも昇るような気分で、
祖母に手をひかれていたのを覚えている。
―余談だが、ランドセルの歴史はとても古く、幕末に西洋の軍隊制度が
導入された際、布製の背のうも同時に輸入され軍用に供されたのがその
起源で、明治20年に時の内閣総理大臣、伊藤博文が大正天皇の学習院
入学を祝し、特注の箱型ランドセルを献上したのが現在のランドセルの
原型になっていると言われている―
肩にかけたり手に持ったり一度に沢山持てるランドセルは、通学路で数名
いれば遊びの道具にすることができる。ジャンケンで負けた者が電柱から
電柱までを皆の分一人で背負うゲームはたぶん今でもあるかも知れない。
この”電柱間”が、ボクらの時代、ボクらの地域では一風変わっていた。
漁村に住んでいるボクらは、小学校から防波堤までの約1キロほどの農村
の道すがらその”ジャンケンランドセルゲーム”をした。農家には数軒おきに
馬小屋が表から見える位置にあった。この馬小屋が電柱代わりだが、
ここに特別ルールがあり、その馬小屋に馬がいるときだけそれは有効と
なった。だから毎日距離は一定ではなく、農作業日和の天気のいい日には
それこそ一人3区間、4区間になることも・・。
今でも馬を見るとうれしくなるのは、無意識に身体の細胞が騒ぐからだろう、
きっと。思い出を詰めるランドセルは黒と赤がいい・・とカルガモを見ながら
思った。
Posted by YUU at 20:27│Comments(0)
│エッセイ
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