2009年11月22日
1977

“運命の出逢い”とは、大概、意表を突くのが相場と決まっている。いや、
“運命の”と命名されるのは、星の数ほどの出逢いの中でほんの一握りに
過ぎず、ほとんどは朝露の如く、忘却の彼方へ消えていく。4半世紀以上
の時が過ぎた後、心の片隅で後悔の念や哀しい想い出になって残っていれ
ば、まだイイ方かもしれない。
◇
車のハザードをオンにし、ショップ前で停車した。
ドリンクホルダーにハンズフリーでセッティングしてあるケータイを
外し、目を瞑っても間違えないであろうキー操作をしようとした左手の
親指が、ピタッと止まる。携帯電話からケータイと進化し、コミュニケー
ションツールというより、いつの間にか身体機能の一部と化したそれを
掌で眺める。
〈もし、この機能があの時にあったなら…〉
特別な日のせいだろうか、懐かしい柑橘系の味が口の中に広がる。
〈もしかしたら、今頃…〉
思考回路のタイムマシンが時間軸を逆走し、数字が1977になった
処で停止した。
「何か飲みますか?」
台所から廊下を通ってきた僕に、店を開ける準備をしていた彼女が先に
声をかけてくれた。その声は春風のように優しく耳元をくすぐる。
「あっ、じゃー、レスカ下さい!」
僕が流行りの、いかにも安っぽい略語でその飲み物をお願いすると、
彼女は“ニコッ”と微笑んで、「はい!」と応えた。
僕はこの数十秒のやり取りで、たぶん無意識に、彼女の人となりを
胸の内にインプットした。厳密に言えば、それはほんのちょっと前の
やり取り、勝手口から彼女が「こんにちは!」と顔を覗かせた時は、
“ドキッ”として挨拶もできなかったが、から続いていた。
自分で分析してみるに、B型の傾向で、尻に火が付かないと行動に
でない。その性格のせいで、いや、おかげと言ったほうがいいか、
受験直前の猛勉強が功を奏して、琉球大学を現役で合格したのが
四カ月前。元々何か将来に夢があっての大学受験ではなかったので、
その反動と相まって、入学するや何も手につかなくなった。
当然、身体がまったく学生生活になじまない。インタハイまで
行ったバドミントン部にも入部したが、これ又高校で燃え尽き
症候群に陥っており、すぐに退めた。バイトも固定しない。
おまけにすぐに来た夏休みは長い。二週間程ブラブラしていると、
前期半年分の授業料も実質4カ月分、大学ってサギみたいだな、
などと余計な事を考えるので、しばらく久米島に帰ることにした。
ありがたいことに、島ではすぐバイトが見つかった。
親戚の中学生になる甥っ子の家庭教師だ。アキラという名で本島の
学校に通っているが、夏休みの間、僕と同じように実家に帰ってきて
いた。
親戚は土木建設業を営んでいる。
離島振興の一環なのだろう、島は昔から公共土木事業が活況で、
年がら年中至る所で工事風景が見られる。農漁業が産業の大半の中で、
土建業者は間違いなく裕福層である。
親戚もいつの間にか、僕が子供の頃よく遊びに行った赤瓦の広い家を
そのままにして、隣部落に平屋の大きなコンクリート造の事務所兼住宅を
建てて移転していた。
住宅は道路に面した部分に喫茶店まであった。
店は僕より二つ年上の、4名兄弟の長女のタカコがみている。
―彼女の名前はケイコ。
やはり夏だけ島に帰ってきたらしく、兄が工事のダンプカー運転手を
している縁で、タカコの喫茶店でバイトをしているとの事。タカコと
同い歳だ。タカコがキレイなタイプなら、カワイイタイプの女性で、
とても同い歳には見えない。
彼女が生まれ育ったのは山側で、漁村で育った僕とは知り合う機会も
なかった。
その日から僕は決められたバイトの日以外にも親戚の家へ遊びに
行った。
店がオープンする前の一時間ほどは二人きりで話せる。お互い妙に
気が合うが、僕はできるだけ自然を装った。
そんな僕らの様子をタカコはいつもそれとなく遠くから見ていた。
ある日店が終わって、いつもの様にタカコが僕と彼女を車で送る
ことになった。遠い方の彼女が先だ。辺りが薄暗い林間の集落、
木々に囲まれた広い屋敷の瓦屋の前で彼女は降りた。
「おやすみ!」
「おやすみなさい!」
後部座席の窓から手を上げる僕に、彼女はあいかわらず優しい声を
返してくれた。
山を下る道中、寂しげに無口になった僕に、タカコがハンドルを握り
ながら云った。
「ケイちゃんのこと、好きでしょ!?」
今まで自分の感情のことなんて考えもしなかったので、いや、たぶん
胸の奥に無理やり押し込めていたのだろう、その一言はもうひとりの
自分の声の様に頭の中でこだました。
背中に彼女の温もりを感じる。
原付自転車は山道の対向車のないキツイ上り坂を、S字を描きながら
トロトロ走っている。傍から見たらその原付は、背中に人間ふたり乗せた
かわいそうなロバの様に映るだろうか。
島の北側は絶景だ。
右手にその景色を見ながら下り坂になると、一転してロバは元気に疾走する。
風が心地いい。僕は両足を広げ、大きな声をあげた。
「ワー!!」
後ろで彼女が続く。
「ワ~!」
彼女の家には、畑仕事の休憩らしく、縁側で両親がお茶をすすっていた。
僕は挨拶だけすると、又彼女を原付の後ろに乗せ、家の前の道路を行ったり
来たりした。娘が連れてきたこの無遠慮なオトコを、親の目にはどう映った
だろう。
ひとしきり走った後、改めて両親に挨拶をし、彼女に手を振りながら僕は
門を出た。
ひとりで原付にまたがろうとした時、急に不安がよぎった。このまま帰っ
たら二度と彼女に会えない気がし、もう一度振り返った。すると目の前には
笑顔の彼女が―。
その小中学校は山麓にあり、校内には天然文化財にでも指定されそうな、
大きな松の木が何本もあった。校門から続く木々の足元は、夏休みの
せいか、雑草が伸びている。
足に絡む雑草を踏みしめ、誰もいない静かな校庭を僕らは並んで歩いた。
コンクリートの塗装が禿げかけた教室を覗いては懐かしがり、
彼女は子供の様にはしゃいだ。その素朴な仕草に、僕も忘れかけていた
郷愁へと駆られた。
それから僕らは運動場の片隅にあるブランコに腰を下ろした。
ブランコをゆっくりこぎながら、彼女は視線を先に向け、
「ねえ、鉄棒ってあんなに低かったかしら」
咄嗟のことに「そりゃ、そうでしょう」と、そっけない返事になって
しまった。少し自己嫌悪に陥ったが、彼女は気にする素振りはない。
どうやら運動オンチの彼女は、運動器具にいい思い出がないらしい。
「今なら、出来るかな…」言うが早いか、彼女が三番目に高い鉄棒を
逆手で握る。“うっ!”って声がしたけど、身体が鉄棒を回ることは
なかった。
その後僕らの関係は少しの進展もないまま、長かった夏休みもあっと
いう間に終わりに近づいた。
僕の不甲斐ない学生生活の話にも、微笑みながら興味を持って聞いては
くれても、彼女自身は本島での生活をあまり口にしようとしない。その事を
僕はつっこんで訊くこともしなければ、詮索することもなかった。
本島には先に僕が帰ることになり、彼女は港に見送りに来た。
フェリーに乗り込む僕に彼女は、「さよなら」と呟くように口にした。
「じゃあ、又ね!」ではなく…。
僕も「うん、じゃあ・・」と、気持ちの見えない、どうみてもこのシーン
に相応しいとは思えない言葉を返した。不思議なほど冷ややかなやり取りに、
自分でも戸惑いを隠せずにいた。
フェリーが離れた桟橋に最後まで残り、小さくなってゆく姿が僕の脳裏に
焼きついた。その時の彼女の想いも知らず、本島での再会の約束もしない
まま、僕らの短い夏は終わった。
あいかわらず沖縄の夏は長い。この数か月、街の風景も変わらない。
とは言え、9月も半ばを過ぎると、夕方からは頬を掠める風が微かに
季節の変わり目を感じさせてくれる。
本島に戻ってからは、真面目に大学にも通うようになった。ただ
それは、突然勉学に目覚めたというより、なるべく忙しい時間を作る
様にしたと言った方がいい。
幸いなことに、同じく本島に戻ったアキラの家庭教師を引き続き
できた。
かつてこれ程、後悔したことはなかった。
何故、彼女ともう一度会う約束をしなかったのか。いや、せめて連絡
場所を聞かなかったのか。
会えなくなって自分の本当の気持ちが分かるなんて…。日々、つのる
想いが僕を苦しめる。ありきたりな、ひと夏の恋と割り切れれば、気が
楽になれるのに…。
島にいる時の自分はどことなく仮の姿だった。素直になれず、いつも
彼女と一定の距離を置いていた。ただそれは彼女の方も同じだった気が
する。
彼女の居場所はアキラも知らない。島から遊びに出てきたタカコには、
“何で連絡場所位聞けなかったの”と詰られた。確かに僕は彼女の事を
ほとんど知らない。この期に及んで、タカコから彼女について知る限り
のことを聞いた。
彼女は8名兄弟の4番目で、中学を卒業するとすぐに本土に渡った。
まだまだ下にいる兄弟たちの為に進学をあきらめたのは、よくある家庭の
事情と言えばそれまでだが…。
三年ほど本土で働いた後、理容の道を目指す為沖縄へ戻ってきた。だが
ちょうど、すぐ下の弟が本島の高校に合格した時だったので、またしても
一時自分の夢を置いて、姉と一緒に小さな食堂を始めた。
それから後は、弟の面倒をみながら食堂を続けているのか、それとも
理容の道へ進みだせたのか、タカコもよく知らないとの事。
大学に通う僕を彼女の目にどう映っていたのだろうか。
見送りに来た彼女の最後の姿を思い出した。精一杯の笑顔は、涙さえ
我慢することに慣れていたからなのか。僕の中であの時閉じ込めた感情が
胸の中ではじけた。今思えば、自分にない芯の強さの彼女に僕は惹かれ
ていたのかもしれない。
秋風が身にしみる。
道行く人は幸せそうに見えて、街の風景を変えた。
あれから一カ月になる。大学以外は毎日“ロバ”の嗅覚を頼りに、那覇、
浦添あたりの小さな食堂と理容室を探している。手掛かりはこの二つしかない。
理容室はたいていガラス越し確認できるが、食堂はキッチンが見えないので、
中に入って夕食を兼ねた。神に祈るような気持ちも届かず、空振りに終わる
日々が続く。あらためて、いい加減だった生活と性格を悔む。それでも必死に
萎えそうになる気持ちを奮い立たせた。
そんなある日、階段を上り週三回のドアを開けると、アキラが大きな声で
駆け寄ってきた。
「ケイちゃん見たよ! うん、ケイちゃんに間違いなかった!」
親の車が浦添を走っている時、後部座席から偶然見かけたらしい。降りて
確認した訳じゃないと言うが、理容室という事で僕も確信した。いや、確信
したかったのかもしれない。
「ありがとう、アキラ!」
場所を確認すると、バイトのキャンセルも言わずドアを飛び出し階段を
駆け降りた。
イーフビーチのモクマオウ林に隣接する広場は、宅地として村が分譲を
開始するらしい。きれいに整地されていて、原付の練習にはうってつけだ。
後ろから彼女に指示を与えた。
「ゆっくりゆっくり、そうそう・・あら、又コケた!」
関西弁で言うと、彼女の運動神経は“ほんまにドンくさいなぁ!”
でもコケるたびに彼女はさわやかに笑った。
…かつて彼女が座っていたシートのぬくもりを感じ、頭の中であの笑顔が
リピートする。
夜風が心地いい。
国道から入ったそんなに広くない道路は以前にも通った場所だ。
しばらくすると、赤と青の回転灯は止まっているが、明りは点いている
店が見えてきた。エンジンを止め、ガラス越し中を覗いた。
シルエットは一つ。胸の鼓動が激しくなる。
ドアの前で深呼吸し、音がしないようにゆっくり開ける。向こう向き、
ほうきで店のフロアを掃いていたその女性が振り返る、スローモーション
のように…。
店の近く、誰もいない小学校。
道路脇の広場は、街灯の灯りが木々の影を作っている。ベンチでその影を
なぞるように追っていると、視線の先、ぼんやりと人影が―。
彼女は思ったより早く来た。よっぽど片付けを急いだのだろう、まだ手に
エプロンを持って、息を切らせている。
言葉が出ない。
もし又会えたら…とあんなに、頭の中で描いていたはずなのに。ベンチに
並んで座ってもしばらく沈黙が続く。
肩が触れ合った。少し震えているその肩を抱き寄せ、僕は絞り出すような
声で、
「会いたかった…」
「…うん」
彼女の瞳から一筋の涙が―。その頬を指で拭い、強く抱きしめた。
重ねた唇、彼女の魂が僕の中に…
「今から、帰るネ」
「うん、気をつけて!」
ありきたりな日常は、銀の指輪の特別な日でも変わらない。ケータイを
切り、元に戻した。もしもあの時この機能があったら…僕らは今頃、別々の
道を歩いていたような気がする。
フラワーショップで買った25本のバラの花束を抱え、静かに
ドアを開ける。玄関に出てきた彼女は、分かっていたはずなのに毎年の
ように、びっくりし、とびっきりの笑顔を見せた。
その笑みは初めて逢ったあの日のままだ。
Posted by YUU at 21:16│Comments(0)
│エッセイ