2014年02月24日
十九の香り (4)
(5章)
風がこんなに心地いいのは久しぶり!
芝生の匂いが鼻をくすぐり、雑木林の辺りから鳥のさえずりが聴こえて
くる。時々二羽が勢いよく飛び出し追いかけっこしては又元の処へ
飛び込んだ。
澄み切った青い空に丸い雲が規則正しく配置され、西の方にゆっくり
流れていく。
遠くに名護湾が見える。
さすがに十一月に入って日差しは柔らかく、どうやら日焼けの心配は
なさそうだ。
祥子の薄いピンクのウェアは胸のペンギンが両手を広げ、
爽やかな白のパンツにすらっとした足は一層長く見える。女性のゴルフが
スコアより格好を重視することを考えれば、途中からスコアを付けなく
なった祥子ももはや初心者ではない。
祥子は十八番の土手に腰を下ろし被っていたサンバイザーを取った。
両手を広げ深呼吸をすると空気がおいしい。
〈どうして街中とこうも違うのだろう。最近は夜過ごす時間が多く
なっていたからつくづく来てよかった〉
カートを引っ張ってクラブハウスへ行きかけた雄一郎が戻ってきて、
祥子の傍に座った。
日曜日はショートコースでももちろん混み合う。
後のパーティーもすぐに上がってきて、ふたりの脇を通り、お互いの
スコアを確認しながらクラブハウスへ消えていった。
祥子は髪をかきあげながら言った。
「雄ちゃん今日はありがとう。とっても楽しかった!」
「こっちこそ!祥子のおかげでご老体にはいい運動になったよ」
“ふ~!”と一息つくと、満面の笑みを浮かべた雄一郎は、“ご老体”
の言葉がはた目にも冗談と分かるほど若々しかった。
確かにラウンドの途中、時々キツそうな表情をしていたがー。
クラブハウスのレストランで食事を終え駐車場に出ると、
さっきまであんなに晴れていた空に何やら黒い雲がかかっている。
ただその雲の端は、大きな夕陽が海に沈みかけオレンジ色に染まって
いる。
「わ~きれい!」
祥子は車のドアの前で立ち止まった。
雄一郎はそれには構わずトランクにバッグを積み込むと、そこから
何やら白い袋を持ってきた。
雄一郎が運転席に座ったので祥子もあわてて助手席に座った。
「はい、プレゼント!」
雄一郎は、袋の中から包装されていない細長い白い箱を取り出し、
祥子に渡した。
「えっ!うそー!ねえ、何?何で?」
女性は記念日のプレゼントに敏感だが、逆に思い当たらないと
“どうしたの?”と理由を訊きたがる。
祥子が包装やリボンのないプレゼントを、無造作に渡され戸惑った
のは当たり前のリアクションかもしれない。
雄一郎は首を傾げる祥子に、軽く“う~ん”と唸ったがすぐに冗談
ぽく笑った。
「そうだな、初めてのデートの記念ってことにしようか!」
改めて箱を見ると、知っている有名ブランドのロゴマークだ。
祥子はちょっと間を置きニコッと応えた。
「オッケー!ありがとう!」
車を走らせた雄一郎は一転して無口になった。
祥子は思いがけないプレゼントにしばらくはしゃいでいたが、
相づちを打つだけの雄一郎に気づき、
「どうしたの?やっぱり疲れた?」
上の空で何か思いつめているようだった雄一郎は祥子の声に、
「あっ、うん・・そうだな」と無難に返しながら、夕方の交通情報の
流れるカーラジオをCDに変えた。
祥子はそれ以上言葉をかけず、窓の外に目をやった。
暮れゆく景色-。
リチャード・クレイダーマンのピアノが、一瞬の静けさを打ち破る
ように流れてきた。“秋のささやき”の切ない旋律が祥子の胸をしめ
つける。
フロントガラスにポツポツと雨粒が落ちてきた。
ワイパーを間欠にして、しばらく黙って車を走らせていた雄一郎が
ストリングスの前奏で始まった曲に、訊くとはなしに訊いてきた。
「これ一番好きだなあ。知ってる?」
ふいを突かれたように祥子は、
「えっ!う~ん初めてかな・・」と応えたが会話はそれ以上続かない。
目を閉じて雄一郎が好きだといった曲を聴いている内に、祥子は
こみあげるものを抑えられなくなった。それが何故なのか、自分でも
も分からない。
頬を伝う雫を隠すみたいに、ウィンドウの方に顔を向けた。
本格的に降りだした雨の雫もウィンドゥを斜めに伝う。その向こう側、
いつの間にか車は街中を走っていた。
曲が終わると雄一郎はCDを取り出し、ケースに入れ、
「それアゲル」と祥子に渡した。
祥子のアパートに着いたのは八時過ぎ。
雨に煙る中、いくつかの窓から明かりが漏れている。
雄一郎は車を歩道脇に止めた。
「雄ちゃん今日はありがとう。とっても楽しかった。・・又行こうね」
ゴルフ場と同じセリフも今度は静かなトーンだ。雄一郎は返事の
代わりに笑みで返した。
車からアパートの入り口はすぐそこだが、しばらく雨音を聴いていた。
胸の高鳴りのように雨は激しさを増す。居た堪れなくなった祥子が
沈黙を破った。
「じゃ、行くね。・・おやすみなさい」
ハンドルに額をあてていた雄一郎が顔をあげ、祥子に向き直した。
「うん、オヤスミ!」
後ろ髪を引かれる思いでドアを開けたが、
祥子は走ることをせず車に背を向けたまま動かない。
すぐに激しい雨が襲う。
立ち尽くしていた祥子が走り出そうとした瞬間、その背中から抱き
止める影―。
雄一郎は街灯で逆光になるシルエットを何も言わず抱きしめた。
「雄ちゃん・・・」
祥子は応えるように胸の前でその両腕を抱えた。
一つに重なるシルエット。
「・・・」
雄一郎は言葉を飲み込んだが、一呼吸置いて細い肩越し囁いた。
「祥子、どんなことがあっても夢をあきらめるなよ・・」
その瞬間、祥子の中でずっと抱えていた、〈得体の知れない不安〉が
激しく胸を突き刺した。
「いやー!」
振り向いた祥子は震える手で雄一郎にしがみついた。
その身体をやさしく起こした雄一郎は、頬にかかる濡れた黒髪を掻き
揚げ、小さく震える唇にそっと唇を重ねた。
落ちてくる雨粒が街灯のカクテル光線に照らされ、ふたりの周りで
はじけた。
照明が消えたままのワンルーム。
閉じられたカーテンの僅かな隙間から灯りが差し込む。その灯りの先、
玄関脇の靴箱の上に濡れた服が重なるようにへばりついている。
シングルベッドの上、まだ乾ききらない祥子の髪を雄一郎は両手で
包み込むように抱き寄せた。
白い肌に巻きつけられたバスタオルをゆっくり外す。
ツンとした乳房が微かな灯りの下に晒された瞬間、ビクッと身体が
反応し雄一郎から離れた。
無意識の反射行動の後、祥子は雄一郎に向き直りその胸に顔を
うずめた。少し落ち着いた祥子は雄一郎の身体が思いのほか華奢な
ことに気づいた。
理性の砦が崩れ、夢遊病者のように言葉を発しない雄一郎。
祥子の消え入るような「ん・」という肉声だけが微かに艶めく。
雄一郎はローソクが消える直前の炎のように祥子を抱いた。
まるで体内に残っている男としての欲望をすべて吐き出すかのように―。
触れただけで壊れそうな祥子の身体を女としての初めての痛みと
悦びが貫く。
カーテン越し稲妻が男と女を照らし、程なく雷が鳴り響いた。
-つづく-
Posted by YUU at 02:39│Comments(0)
│短編小説