”mai・・・元気ですか?
あれから三年。今でも僕は・・・
あの日の事が夢じゃなかったのかと思うことがある。
この胸に残る・・刹那の欠片”
電車を降りる。
暖房でほてった頬を冷んやりとした空気が刺す。
11月も後半になると小樽はもう完全に冬といっていい。
季節でいえば札幌より少し先をいく感じだ。厚手のダウン
ジャケットの襟を首の周りに立て、ポケットに両手を突っ
込んだ。
派手な格好の賑やかなオバちゃんグループが出た後、ゆっくり
改札を出た。
車のまばらな駅前は脇のガードレールの半分の高さまで雪が
積もっている。夜半にかけて降ったであろうか、まだ真新しい
白さを保っているが、車道にはみだした処は車のタイヤ跡ですでに
灰色のアイスバーンになっている。
時計に目をやる。
少し薄暮に感じるが、まだ午後3時過ぎ。町全体が静けさに
包まれる中、時々走り去る車のエンジン音。どんよりとし た空を
見上げると、フワフワと沫雪が舞ってきた。
ここはやはり町全体が映画のセットのようで、物語の舞台には
うってつけだ。
先ずの目的地は駅から歩いて15分もかからなかった。
―小樽運河。
ささくれの様な手の届かない胸の痛み。
そうだ、並んで見ていたんだ。触れることの出来ない白い手が、
僕の傍でス~と消えた。
◇
運河沿い、僕らは滑らないように足元を見ながら並んで
歩いた。弾むほどの会話はない。いや、ここに至ってもまだ
お互い、会話の波長を探っているといった方がいい。
昼前に札幌で初めて会って、まだ2、3時間しか経ってない
のだから仕方ない。
当たり前だが、露出したそこだけ感度がいい。
南の島育ちの僕は、寒さが痛みに変わる感覚を初めて感じ、
今朝方買ったばかりのニット帽を、両耳を覆うように深く被った。
右手だけジャケットのポケットに突っ込んだ。この足下の
状態、両手を突っ込む訳にはいかない。自然に晒された左手に、
改めて手袋を買い忘れたことが悔やまれる。
僕のぎこちない足取りと行き場のない左手をチラッと見て、
北国育ちの君はクスッと笑った。そしておもむろに自分の
手袋を片方だけ脱ぎ、「やっぱ、寒いよね」と、それを僕に
差し出した。
「アリガト!」
ディズニーのヒロインのような笑顔に、僕も笑顔で応えた次の
瞬間、自分でも思いがけない行動にー。
手袋を左手にすると、もう一方の手が透けるような白い手を握り、
ポケットに導き入れた。
それは勇気というより、衝動だった。
一瞬、君は"えっ!"てリアクションの後、今度ははにかんだ
笑顔を浮かべた。その表情は僕の忘れかけていた感情を呼び
起こすのに十分だった。
厳密に言えば、出会いは一年前、僕のブログに君がコメント
を書き込んでくれたのが最初だった。南の島の他愛ない日々、
独り言のようなあまり更新もしないブログだったが、それは北の
国の君も同じで、それからはお互い二人だけのゆったりとした
会話のように訪ねあった。仮想世界だけの心地いい波長で。
南の島と北の国。
確かに何気ない出来事さえコントラストが映えた。僕の方も
いつしか君の住む白い街に、想いを馳せる様になっていた。
感性の触れ合い。
ありきたりなキッカケだが、ちょっとしたインスピレーション
が働いたのは、多分、君の方も同じだったはずだ。
どちらかというと不器用な生き方を、仮想のフィルターで共有
したのかもしれない。
◇
11月22日をあれから2度過ごした。去年とその前は南の島で。
そして3度目ー。
独り回想のテーブル。ジンギスカンと1週間遅れのボジョレー・
ヌーヴォー。グラスを零れ落ちるのは涙ではなく君への・・・。
自分でも不思議に思う。
何故、あの日君に会うことが出来たのだろう。
何故、その勇気の行方を見失ってしまったのだろう。
仮想とリアルの狭間で揺れる想いー。
君も同じだったのだろうか。
断ち切った想いがあったのだろうか。
仮想にも戻れない・・・
―北一硝子。
天井が5,6mはゆうにある大きな喫茶ホール。明治時代の
石造り倉庫を生かし、石油ランプだけの照明の幻想的な
ホールは、時計さえ見なければ昼間ということを忘れてしまう。
テーブルはあの日と違って、半分は空いている。
それでも僕は入り口近くの、そう同じ席に座って、同じように
コーヒーとケーキを注文した。君に合わせたチーズケーキ。
仄かな灯りのもと、そこは記憶に刻みこまれた光景だ。ただ、
左隣の席が空いている以外は。
あの日の勇気の行方?
今となっては答なんかとうに分かっている。
ただ会いたい。もう一度君に。
冷えた身体が温まってきた時、突然ホール内にピアノの音、
ショパンの旋律が流れてきた。見ると中央の一段高い所に
グランドピアノがあり、黒い服の男の人がそれを弾いている。
身体を軽く前後に揺らせながら・・・
目を閉じる。
五感の一つが消え、魂は蒼白い雪灯りの原を彷徨い、
研ぎ澄まされた聴覚が記憶の中枢を刺激する。
テーブルの上、珈琲カップを包む白い手。肩にかかる処が
軽いウェイブの黒髪は、ランプの灯りでブロンズに変わる。
ピアノへ向くその横顔の微かな翳りー。
時折見せる笑顔の向こう側を、臆病な僕の心のキャンパス
には描けない。
今なら・・・
ノクターンの甘美な装飾音にあの時置き忘れた感情、君
への想い、がこみ上げキャンパスの片隅で零れた。
・・・きっと、素直に受け入れられる。
刹那く交錯する世界の中で、いったいどれ程の時が刻ま
れたろうか、ふとテーブルの左手に気配ー。
瞬間、胸の鼓動が激しくノクターンを乱す。
・・・深く息を吸い、ゆっくりと目を開いた。
ー了ー